『猫の妙術』という本をご存じですか?
江戸時代の中期に書かれた剣術指南書です。
今回わたしが読んだのは、より読みやすくなっているコチラの新釈版。
新釈 猫の妙術 武道哲学が教える「人生の達人」への道
佚斎 樗山(いっさい ちょざん)・著
高橋 有・訳
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それぞれの特技を持った猫たちと大きなネズミとの戦いから、戦いの極意を学べます。
対戦系、特に1対1の対戦競技をされている方にぜひ読んでいただきたい一冊です。
このコラムでは概要を抜粋してスポーツメンタルの視点でまとめています。
あらすじ
江戸時代に勝軒(しょうけん)という名の剣術者がいました。
剣術の道が判然とせず暮らしていると、ある日、家の中に大きなネズミが現れます。
勝軒には、猫と会話できるという不思議な力があり、飼っている白猫に退治させようとしました。
しかし、白猫はネズミにボコボコにされてしまいました。
ネズミが苦手なドラえもん状態です。
そこで勝軒と白猫は別の猫に退治を依頼することになります。
まず最初は、「技」に長けた黒猫。
日々鍛錬した技を駆使してネズミを退治しようとします。
しかし、黒猫では退治できませんでした。
次に、大きな「気」を放つ虎猫。
鍛えられた威圧感でネズミを圧倒しようとします。
しかし、虎猫でもうまくいきませんでした。
さらには、「心」で受け止める灰猫。
ネズミにぶつかろうとするのではなく和らげようとします。
しかし、灰猫でも返り討ちにあってしまいました。
結局勝軒と4匹の猫は、山奥にいる古猫に依頼することになります。
武神と噂された古猫は、見た目はとても機敏とは言えない体格と風貌。
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古猫が大きなネズミに挑むと、いとも容易く古猫はネズミを咥えて庭に逃しました。
技に長けた黒猫や大きな気を持つ虎猫、そして心で受け止める灰猫は勝てなかったのはなぜか。
なぜ古猫は簡単にネズミを捕らえることができたのか。
古猫が他の猫たちに教える「道理」とはなにか。
そんなことを学べる一冊です。
ではもう少し詳しく紹介していきます。
「技」とは枝葉である
黒猫はネズミを捕るためにたくさん技を磨いてきました。
古猫は黒猫にこう問います。
古猫「そもそもネズミ捕りの技を修行するのは何のためじゃ?」
黒猫「そりゃあ、技を身に着けてネズミを捕るためです」
古猫「違う。技など枝葉に過ぎぬ。身に着けるべきはネズミを捕るという行いの底にある『道理』なのじゃ」
余談ですが、わたしはこの「そもそも〜」の質問が好きです。
「そもそも」の質問をすることで、思いがけない答えにたどり着くことがあります。
メンタルコーチングをする中で、アスリートに問いかけるときによく使う言葉の一つです。
話を戻しましょう。
「技」には「道理」があるのです。
昔から長く伝えられてきたようなシンプルな技ほど、無限に対応できる「道理」があるといいます。
超情報化社会になり、様々な情報が簡単にインターネットで手に入るようになりました。
スポーツにおける「技」もそれにあてはまるかもしれません。
それらの技がどこから生まれたのか。
その道理を知る人は多くないかもしれません。
「道理」とは物事の道筋。
川に例えれば、源流からどう流れてきたか。
木に例えれば、太い幹です。
黒猫のように小手先のテクニックだけを学ぶのではなく、その技の源流を知ることが大切です。
なぜなら、相手の考えや動きは無限だから。
決してパターン化されているわけではないのです。
だからこそ、物の道理や技の道理を知っておくことが、相手の無限に対応できる術ということなのですね。
浩然の「気」
強い気を持ち、威圧感で相手を圧倒しようとした虎猫。
なぜ相手を圧倒できなかったのでしょうか。
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それは単に、相手の気がさらに勝っていたからなのです。
古猫「こちらが敵の気を破ろうとすれば、敵もこちらの気をまた破ろうとするのじゃ。自分の方が気が強いうちはまだよい。破ろうにも破れないほどの気の持ち主だったらどうするのじゃ?」
虎猫「それは……そうならないために強い気を練ってきたのです!」
古猫「わかっておらぬの。強い弱いというのは必ず移り変わる。自分だけがいつまでも一番強く、敵が皆弱いなんてことがあるわけがない」
スポーツメンタルに置き換えてみましょう。
強い心を持ちたい。強靭なメンタルを持ちたい。
こんな思いを持つ人も多いかもしれません。
しかし、強い弱いというのは誰かと比べたものに過ぎません。
ここにも道理が大切になってきます。
中国の孟子は、『浩然(こうぜん)の気』という気の在り方を説きました。
浩然の気とは、心のあるがままに振る舞うことであり、相手より強いか弱いかが問題ではありません。
どれだけ道理に寄り添えるかなのです。
『窮鼠(きゅうそ)猫を噛む』という言葉をご存じですか?
追い詰められたネズミが猫を噛むように、弱者でも追い詰められたら強者に反撃するという意味です。
では、なぜ追い詰められたネズミが猫を噛むのでしょうか。
それは、相手(ネズミ)は生き残るために必死だからです。
必死の境地で、やられないぞ!という心の道理で行動しているのです。
本書はもともと剣術指南書。
真剣で斬りあうため、負け=死を意味します。
スポーツにおいては負け=死というのは大げさかもしれません。
しかし、お互い自分の全てを懸けて戦っているのは間違いないでしょう。
スポーツにおける道理を意識することができれば、相手よりも強くあろうとか、相手を圧倒してやろうという気持ちにならなくなります。
「念」よりも「感」で動く
相手に応じてそれを受け止めるスタイルの灰猫。
自分から動くのではなく、相手の動きを見て包み込むようにいなす灰猫でも、結局はネズミに勝てませんでした。
そんな灰猫の言葉を聞いて、古猫はこう言います。
古猫「おぬしが言っているのは、真の無形・真の調和ではないからのう。作為によって形をなくしておるのじゃ」
灰猫「しかし、私に作為などありませぬ。私にあるのは、ただ相手に応じることのみ」
古猫「それがいかんのじゃ。調和しようと考えて調和するのは、調和という一つの形をとっているに過ぎぬ。決して形をなくしているのではない」
続けて古猫はこう言います
古猫「技には『念』から出るものと、『感』からでるものがある。『念』とは考えること。『感』は感じることじゃ。念の動きではうまくいかん。考えては、道理のもたらす素晴らしい働きもどこから生まれようか」
灰猫「ではどのようにすればいいのでしょうか」
古猫「どのようにする、それがまたいかんのじゃ。考えず、しようとせず、ただ心の『感』に従って動くのじゃ。そうすれば自然さの中に融け込んで形はなくなる」
考えるのではなく、感じる。
相手を見て動くのではなく、心に従って動く。
文字にするのは簡単ですが、体現しようと思うと簡単ではないと思いますよね。
でも、それってこの瞬間に「考えて」いるんです。
ときには、思い切って考えるのをやめてみましょう。
勝ち負けは妄想である
古猫を山に連れて帰るとき、勝軒と古猫はこんなやりとりをします。
古猫と勝軒が数メートル離れます。
勝軒から見れば、自分が立っているところは「ここ」で、古猫が立っているところは「そこ」です。
今度は勝軒が古猫のいるところまで歩いてきます。
勝軒が今いるところからさっきいたところが「そこ」になります。
一方、さっきは「そこ」だったところが今は「ここ」です。
決して言葉遊びをしているのではなく、ここに勝負の本質があります。
「ここ」も「そこ」も同じ大地です。
決まった形をとるからこそ、それに対峙するものがでてきます。
「己」と「敵」、「勝ち」と「負け」がまさにそれです。
そもそも、強い人を「強い」としなければ、強い人も弱い人もいなくなります。
心に「勝ち」という決まった形をつけるからこそ、そこから見て「負け」も生じるのです。
最後に、古猫はこんなことを言います。
古猫「すべての形は妄想じゃ。上も下もなく、良いも悪いもなく、重いも軽いもなく、自分も相手もない。本来一つに融け合って道理に従い移りゆく現実を、勝手な形でとらえておるに過ぎんのだ」
いかがでしたか?
スポーツの世界で、この考え方を受け入れるのは簡単ではないかもしれません。
すべてをいきなり受け入れるのではなく、「こういう考え方もある」と捉えることが大事です。
『猫の妙術』、興味ある方はぜひ読んでみてください。
最後まで読んでくれた方に一つ質問です。
もしあなたが、古猫のような心のあり方でいられたとしたら、明日からできる小さな一歩は何だと思いますか?